「特集 つながる、つがる」夏の終わり・収穫を控えたつがる市を巡るルポルタージュ

雨三つぶ降れば、イガル。

雨三つぶ降れば、イガル。

農が、ブームである。
里山の暮らしや田園風景に憧れ、団塊の世代や若者の間でも農業をやってみようという人も増えている。すばらしいことだ。津軽は、そんな人々にとって理想郷に見えるかも知れない。
しかし、また一方で現実の農業は決して簡単なものではないことも、津軽の歴史は教えてくれるだろう。今でこそ米どころ、リンゴやメロンの里として知られるこの地域も、神様は無条件でプレゼントしてくれたわけではなかった。

つがる市の市勢要覧によれば、津軽の新田開発は430年ほど前、津軽藩祖為信から始まったとされる。当時四万五千石だった石高が、「名君と謳われた四代藩主・信政の頃には『岩木川』の堤防工事、排水堰づくり、『土淵堰(どえんぜき)』の開削などにより開発が飛躍的に進み、実高三十万石をあげるまでになった」
こう書けば、至極順調のようだが、その道程は洪水と凶作との過酷な戦いの連続だった。元和、元禄、宝暦、天明、天保の五大飢饉は、その度に数万人の餓死者を出し、津軽一円を凄惨な地獄へと化せしめた。食えないゆえの赤子の間引きなどの歴史も、津軽の情念となってじょんがら節の哀調や恐山のイタコ信仰の形で今日につながっているのだろう。
また、津軽は「雨三つぶ降ればイガル」といわれた。
イガルとは、洪水のことだ。岩木川上流は急勾配のため、雨で水嵩が増すたびに鉄砲水のように氾濫を繰り返した。問題は上流だけではない。「川には、水だけでなく、周囲の山からの大量の土砂、さらには、日本海から吹き付ける波風が海岸の砂を運び、ついには十三湖の水戸口(出口)をふさいでしまう」(市勢要覧)
行き場を失った水はどっと津軽平野に溢れ出し、実りはじめた稲穂を一夜にして泥の淵に沈めたのだった。こうした数々の辛酸をなめながらも、農民たちは黙々と、馬に挽かせて田を打ち返す馬耕(バッコ)を繰り返し、灌漑工事に汗を流した。新田開発とは、まさに水との戦いだった。

小島一郎と、津軽。

小島一郎という写真家を知っているだろうか。
大正13年に青森市大間で生まれ、北国の風景や農作業を撮りつづけて39歳の若さで早世した。
その骨太でリアルな作風は写真界のミレーと称され、大規模回顧展が開催されるなど近年再評価が進んでいる。
彼の傑作群の中でも、つがる市の稲垣付近で撮られた一枚はひときわ印象深い。角巻きをかぶり身をかがめて家路を急ぐ農婦たち。横なぐりの地吹雪の轟音が画面から聞こえてきそうだ。
北国の冬は、かくも長く厳しいものだった。
雨三つぶ降れば、イガル。 現在の豊かな農村風景は、苦難を越えた成果だ。 雨三つぶ降れば、イガル。 今は穏やかな岩木川もかつては暴れ川だった。 雨三つぶ降れば、イガル。 高山稲荷にはつがるのみならず全国各地から参拝者が訪れる。
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